2002年11月17日日曜日

〔再録〕『珊瑚集』ー原文対照と私註ー 憂悶 シャアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
       シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Spleen Charles Baudelaire


Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle
Sur l'esprit gémisssant en proie aux longs ennuis,
Et que de l'horizon embrassant tout le cercle
Il nous verse un jour noir plus triste que les nuits ;


Quand la terre est changée en un cachot humide,
Où l'Espérance, comme une chauve-souris,
S'en va battant les murs de son aile timide
Et se cognat la tête à des plafonds pourrris ;


Quand la pluie étalant ses immenses traînées
D'une vaste prison imite les barreaux,
Et qu'un peuple muet d'inflâmes araignées
Vient tendreses filets au fond de nos cerveaux,


Des cloches tot à coup sautent avec furie
Et lancent vers le ciel un affreux hurlement,
Aisi que des esprits errants et sans patrie
qui se mettent à geindre opiniâtrément,


- Et de  longs corbillards, sans tambours ni musique,
Défilent lentment dans mon àme ; Espoir,
Vaicu, pleure, et l'Angoisse atroce, despotique,
Sur mon crâne incliné plante son drapeau noir.


(Les Fleurs du Mal)

憂悶 シャアル・ボオドレヱル


大空は重く垂れ下がりて、物覆ふ蓋の如く

久しくもいわれなき憂悶に嘆くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か、
蟲喰みの床板に頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠の如く「希望(のぞみ)」は飛び去る。
限りなく引續く雨の糸は
ひろき獄屋(ひとや)の鐵棒に異らず、
沈黙のいまわしき蜘蛛の一群、
來りてわが腦髓に網をかく。
かかる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく彷徨ひ歩く亡魂(なきたま)の、
固執(しうね)くも嘆き叫ぶごと
大空に向かひて傷しき聲を上ぐれば、
送りる太鼓も楽もなき柩の車は
吾が心の中をねり行きて、
欺かれし「希望」は泣き暴悪の「苦悩」は
うなだれるる我が頭の上に黒き頭の上に黒き旗を立つるかな。



『珊瑚集』の二番目の詩です。

陰鬱な詩ですね。低く雲が垂れこみ、暗くて寒い冬のパリならではのもの凄さがあります。でも荷風はこのような陰鬱な冬を経験しなかった。アメリカからフラ ンスに着いたのは7月で、すぐリヨンに向かいます。リヨンでは冬を越しましたが、比較的フランス南部に位置する町ですから、冬はパリほど陰鬱ではありませ ん。リヨンからまたパリに來来るのは翌年の3月28日。パリを去るのが5月28日です。荷風はとてもいい季候のパリしか見ていないのです。
何故荷風はこの陰惨な詩に感動したのでしょう。思うに、荷風は実際このような陰鬱な気持ちでフランスに滞在したのではないかと思 います。心弾ませて念願のフランス行きを果たしたものの、アメリカに残してきたイデスの事を思い、罪の意識を感じながら悶々とした生活を送ったと考えられ ないでしょうか。荷風のイデスに対する気持ちは、ほとんど彼の一生につきまとっていたのではないでしょうか。その後の日本での派手な女性関係は所詮イデス との関係を超える物ではなかった。それが一点。もう一つは、日本への帰国時期がどんどん迫ってくることです。日本に帰らなければならない、日本の制度に組 み込まれなければならないと言う事実が、一つの強迫観念となって心に重くたれ込めていたのだと思います。

荷風の『ふらんす物語』が多くの素晴らしい描写はあるものの、全般的に鬱の気分が強く、『あめりか物語』ほどの精彩を欠くのは不思議な事実です。あれほど フランスに憧れていたのですから、当然『ふらんす物語』の方が生き生きして然るべきところなのに、実際は反対になっている。荷風をめぐる女性関係の分析 は、往々にしてこのイデスを軽視しているように思います。なんと言ってもイデスは、荷風にとってはじめての「長い期間にわたって」一緒に生活した相手なの ですから。少年時の恋は別にして荷風にとってはじめての「大人の恋」だった。荷風は一生忘れなかったと思います。
余丁町散人 (2002.11.17)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

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